シルバーデモクラシー論を考える-世代間対立を越えて

はじめに

 シルバーデモクラシーとは、「人口比率と投票率の偏りによって、高齢者の政治的影響力が現役世代のそれを上回っている。その結果として社会保障の配分が高齢者に偏ることとなり、世代間格差に繋がっている」という流行りの仮説である。シルバーデモクラシーを構造的問題であるとみなす立場からは、シルバーデモクラシーを解決するための選挙制度改革がいくつか提案されている。また、政治に興味のある同世代の人と話をすると、このシルバーデモクラシー論に関心を持っている人が非常に多い(なお自分は20代の人間である)。
 シルバーデモクラシー論は政治学者の菅原琢がいうように「最近の論壇において流行語となり、仮説ではなく半ば事実として受容されてきた」 *1が、一方でその定義は曖昧で、言葉だけが独り歩きしてきた傾向にあるのは否めない。シルバーデモクラシーやそれによってもたらされる世代間格差の当事者はまさに私たちの世代であり、興味関心を持つのは当然のことであろう。だが、実態の正確な把握なしには解決もできない。本稿では、シルバーデモクラシー仮説に懐疑的な立場から、シルバーデモクラシーや世代間格差について再検討していきたい。

 

シルバーデモクラシー」の罠

 先述したとおり、シルバーデモクラシーは自明のものとして扱われてきた経緯があり、「社会保障の分配が高齢者に偏りすぎている」「高齢者が過剰に優遇されている」といった批判がよくなされる。だが、具体的にどの政権のどの政策がシルバーデモクラシーの実例なのか議論されることは少ない。
 例えば、八代尚宏は安倍政権下で行われた低所得高齢者に対する臨時給付金を実例として取り上げているが、安倍政権はむしろ若年層からの支持が比較的厚い*2(図1*3)。

図1 年代別の歴代内閣支持率

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 また、若年層が安倍政権や自民党をより支持する傾向がある一方で、民進党の支持層は高齢化する傾向にある(図2*4)。だが、民進党の看板政策は「人への投資」、すなわち教育投資であり、「チルドレンファースト」という強い言葉を使ってすらいる*5。これらはなかなか興味深い傾向であるが、支持年齢層と政策のアウトプットは違うということだろうか。いずれにせよシルバーデモクラシー仮説で上手く説明できない事象である。

図2 高齢化する民進党支持層

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 また、安倍政権と最も関わりの大きい利益団体といえば経団連を思い浮かべるが、もちろん経団連は高齢者の利益を代表しているわけではない。あるいはこのところ、国会では若年層に関する政策論争が絶えない。例えば待機児童の存在は大きくクローズアップされ、高等教育の無償化は最優先の憲法マターとして政府与党が検討している。果たしてシルバーデモクラシーなるものは実在するのか。実在するのだとすれば具体的には何を指すのだろうか。
 ところで、大阪都構想や英国のEU離脱シルバーデモクラシーであるとする向きもある。確かに、これらの例ではいずれも若年層の投票傾向とは逆の結果に終わっている。だがここで重要なのは、どちらも賛否が拮抗する中で若年層の投票率が低かったことである。つまるところ、実際には若年層が投票に行くことで結果を左右することができたにも関わらず、若年層の多くは投票に行かなかったのである。そのような層はいわば無関心層であり、若年層を「大阪都構想に賛成していた」「EU離脱に反対していた」とひとくくりにしてしまうのは間違っている。
 そもそもとして、現在すでに人口比率上若年層が不利な状況に陥っているわけではない。実のところ、65歳以上の高齢者が有権者人口に占める割合は30%程度であり、18歳から30代までの若年層が有権者人口に占める割合とほぼ同じである*6。シルバーデモクラシーなるものが仮にあったとして、問題なのは若年層の政治的無関心であり、決して人口構造ではない。上記の2例についていえば、どちらも世代間対立的なマターではないし、直接民主主義という取り組みである以上、選挙制度的議論もなじまない。結局のところ、これらをシルバーデモクラシーの実例として扱うのは適切ではないだろう。

 

「世代間格差」の罠

 シルバーデモクラシーと同時に語られることが多いのが、世代間格差の議論である。世代間格差問題とは、社会保障における負担と受益のバランスが世代によって大きく異なることを指している(図3*7)。シルバーデモクラシーが世代間格差を生んでいるという説は広く受け入れられているように思える。

図3 年金・医療・介護全体における生涯純受給率

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 だが、世代会計と呼ばれるこれらの手法に対してはいろいろな批判がある。例えば、厚生労働省によれば、世代間格差の最大要因は少子高齢化ではなく社会保障の社会化にある*8。社会保障の社会化とはつまり、私的扶養から社会的扶養への移行を指す。年金を例に考えてみるとわかりやすい(図4, 図5*9)。

図4 高齢化の収入源推移 その1

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図5 高齢化の収入源推移 その2

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 図4を見ると分かる通り、1968年から1974年にかけて子の扶養に経済的に依存する高齢者は大きく減った。逆に言えばこの時代は公的年金が未整備であり、子の扶養に依存する高齢者が多く、現役世代は高齢者を私的に扶養していたのである。逆に、2015年の調査では子供からの援助を主な収入源とする高齢者は1%に満たない*10。過去にあった私的な扶養は、図3のような世代会計には反映されない。そのため、現在高齢者となった彼らの「負担」は低めに見積もられているのである。我々現役世代と現在の高齢者とでは、社会保障の負担の在り方が大きく違う。その点を無視して、公的な負担のみを比較するのはアンフェアであろう。
 このような社会保障の「社会化」は、保育園や介護といったサービスにもあてはまる*11。専業主婦世帯が多くを占めていた時代、保育や介護といったサービスは主婦が供給してきた。しかしながら、共働き世帯が増える中でそれらのサービスは社会化されていった。保育や介護を公的に供給するにはお金がかかる。その意味で、公的な税負担を見れば我々現役世代の負担は現在の高齢者が現役世代であったころに比べ大きくなるだろう。とはいえ、彼らはそのような負担を私的に行ってきた世代である。やはり公的な負担のみで世代を比較するのはアンフェアであろう。
 さて、もともとシルバーデモクラシー論は高齢者への分配の偏りを問題視してきた。とはいえ、高齢化率が高まる以上高齢者への支出が増えていくのは当然である。つまるところシルバーデモクラシー論とは、「高齢者の政治的影響力によって、高齢者への分配が、高齢化率から見ても過剰なほどになされる」という議論のはずである。だが実際には、そのような傾向があることは確認できない(図6)。

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 この図を見て分かるとおり、高齢者に対する社会給付を国際比較で見れば、日本は高齢化率に比べ支出を抑えられている方だといえるだろう。果たして、日本において高齢者は過剰に優遇されているといえるのだろうか。対GDP比で見たときに教育関連の支出が少ないのは事実であるが、それだけをもって政治がシルバーデモクラシーに支配されてしまっているとするのは早計ではないだろうか。

 

選挙制度で「解決」すべきものなのか

 先述したとおり、シルバーデモクラシーを批判する立場からは選挙制度の改革案が提示されている。例えば、八代尚宏や小黒一正は、シルバーデモクラシーは構造的な問題であるとして、世代別選挙区、ドメイン投票方式、余命比例投票の3つの選挙制度改革を検討している*12。他にも、義務投票制が改革案としては考えられるだろう。だが、憲法によって投票価値の平等原則が保障されていることを考えれば、このうち現実的なのは世代別選挙区と義務投票制に限られる。他の選挙制度については理論の大きな転換が必要であり、そのまま実現しても違憲判決が出る可能性は高い。
 それでは、世代別選挙区や義務投票制は世代別の政治的影響力を変化させうるだろうか。確かに先述したとおり、有権者に占める若年層の割合は高齢者のそれと大きく変わらない。ならば、若年層が人口比に応じた影響力を行使すれば、それで十分シルバーデモクラシーは解決できることになる。しかしながら、やはり課題もある。なぜならば、現時点では人口比が拮抗しているとはいえ、将来的にはそのバランスが大きく崩れることになるからだ。特に世代別選挙区は必然的に世代間対立を煽る。そのような社会環境になれば、若年層は人口比で見て勝ち目がないことになる。
 そもそもの話をしてしまえば、特定の方向に政策を誘導するために選挙制度改革(それも投票価値!)を議論すること自体が禁忌であろう。特にドメイン投票方式や余命比例投票は投票価値の平等原則を脅かすものであり、このような選挙制度が検討されていること自体に疑問がある。実際のところ、現在の有権者が将来世代のことを考えた投票行動をできるかどうかというのは、民主主義の根本的問題である。増税を拒み、国債を積み上げる現在の政治には、そのような構造的問題を見出すことができるかもしれない。しかしながら、だからといって民主主義そのものを放棄したり選挙制度を変えたりすることが解決策になるわけではない。この点を踏まえた議論をしていくべきだろう。

 

「世代間対立」を越えて

  シルバーデモクラシー論や世代間格差論は、必然的に世代間対立を煽る。そういった議論の前提にあるのは、「有権者は自身の利益を最大化しようとする」という合理的経済モデルであり、それを高齢者に当てはめて考えている。だが、果たしてこのようなモデルは正しいのだろうか。実のところ、それは怪しい(図7, 図8、図9*13)。

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図9 社会保障負担に対する年齢別意識

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 図7を見て分かる通り、日本の高齢者は他国と比べて若い世代の利益を重視する傾向が強い。また、図8に示されているとおり、この傾向は年々強まっている。高齢者も一枚岩ではなく、高齢者重視と若い世代重視とが拮抗している現状がある。また、図9にある通り若年層も一枚岩とはいえない。むしろ若年層の方が高齢層よりも現役世代の負担増加をやむを得ないとする傾向すら見て取れる。このように、シルバーデモクラシー論の前提にある合理的有権者モデルは、世論調査レベルではむしろ否定されているのである。
 それでは、なぜこのような傾向が生じるのだろうか。ひとつの仮説としては、現役世代と高齢者との社会的紐帯の存在が挙げられるだろう。世代間対立とはいうが、現役世代と高齢者は、子と親であったり、あるいは孫と祖父母であったりする。互いにそのような関係にある以上、自らの利益ばかりを追求するわけにはいかない。考えてみれば、これは当然のことではないだろうか。シルバーデモクラシー論の最大の過ちは、そのような社会的紐帯を無視し、世代間対立を煽って選挙制度改革というラディカルな解決方法にすがったことにある。
 以上述べてきたように、シルバーデモクラシーや世代間格差の実態は曖昧であり、そのファジーさから都合の良い使われ方をしてきた。例えば八代尚宏は、マクロ経済スライド実施に反対する集団訴訟シルバーデモクラシーだとして批判している。だが、司法はすべての人間に開かれてしかるべきだし、政府の施策に対する司法的抵抗は、本来政治的弱者の手段である。シルバーデモクラシーなる言葉がひとりあるきして、単なる「高齢者叩き」と化してしまっているきらいがあるのではないだろうか。
 そもそもとして、社会保障制度の根幹は長い間大きく変わっていない。高齢化によって高齢者有利の制度が出来上がっていったとする説には無理が伴う。だとすれば、従来の制度を変えることができない、その硬直性にこそ「シルバーデモクラシー」の本質があるのだろうか。確かに、デフレ時のマクロ経済スライド不適用など課題も多い。だがそれは、われわれ有権者増税を拒むのとなにか違うのだろうか。世代論に落とし込まなければ説明できないような事象なのだろうか。
 先述したとおり、増税を拒み負担を先送りする現在の政治状況には、民主主義の根本的問題を見出すことができるかもしれない。だからといって、独裁や、投票価値をいじったりすることがその解決策になるわけではない。確かに我々有権者増税が嫌いだ。だが、将来世代に負担を先送りすることを良しとしているわけではない。そのような矛盾を誰しもが抱えているのである。だからこそ、世代間対立を煽るのはあるべき方向性ではない。少子高齢化が進む中で、どのように社会保障を配分していくかは重要かつ難しい問題である。そしてそれを解決するのは、熟議と国民の理解でしかありえないだろう。

 

おわりに

 本稿ではシルバーデモクラシーや世代間格差について、従来の仮説にやや批判的な立場から論じてきた。とはいえ、こういった議論が出てくる背景は理解できなくもない。経済成長率が鈍化し高齢化率が高まる中で、現役世代がパイの縮小に不満を抱くのはある意味当然でもある。少子高齢化が加速する日本の将来はどうしても悲観的に見えてしまうし、実際に、ここでいくつか絶望的なデータを提示することも簡単だ。だからこそ、最後に希望を持てる推計にも光を当てておきたい(図10*14

図10 人口構成の変化と就業者数の推移

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 従来、社会保障の負担を巡っては、現役世代と高齢者との人口比が指標として用いられてきた。一般的に、みこし型、騎馬戦型、肩車型などと呼ばれるのが図10の上図にあたるその推移である。一方で下図は、少子化、共働き世帯化、高齢者の労働参画が進む中で、就業者と非就業者との人口比を維持できることを示している。つまり、扶養の負担が劇的には変化しないかもしれないということだ。安倍政権でも「一億総活躍社会」というフレーズのもと女性や高齢者の労働参画を推進しようとしているが、この推計を踏まえれば、将来に絶望する必要はそこまでないのかもしれない。

 

注・出所

*1 菅原琢「18歳選挙権で政治は変わるか」http://www.nippon.com/ja/currents/d00189/
*2 最近の世論調査でも、その傾向は強くあらわれている。内閣支持率の下落を取り扱った読売新聞の記事によれば、「年代別では、特に高齢層で支持が大きく低下した。18~29歳と30歳代は支持が6割以上を保ったが、50歳代は44%(前回55%)、60歳代は36%(同54%)、70歳以上は45%(同60%)となった」。「無党派、高齢層 支持離れ 終盤国会対応 響く」読売新聞, 2017年6月19日
*3 「加計・森友問題、それでも…崩れぬ「安倍支持」の理由」朝日新聞, 2017年5月29日, http://www.asahi.com/articles/ASK5V3PWRK5VULZU002.html
*4 「民進“シルバー政党”化 支持層の62%が60歳以上 年金法・IR法反対…志向とマッチ」産経新聞, 2016年12月19日, http://www.sankei.com/politics/news/161219/plt1612190048-n1.html
*5 民進党ホームページhttps://www.minshin.or.jp/policies
*6 総務省人口推計より筆者計算。総務省ホームページ参照http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2013np/
*7 横軸は生年。縦軸は生涯賃金に対する比率を示している。鈴木亘・増島稔・白石浩介・森重彰浩「社会保障を通じた世代別の受益と負担」http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis281/e_dis281.pdf
*8 以下、厚生労働省社会保障の正確な理解についての1つのケーススタディ社会保障制度の“世代間格差”に関する論点」http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000053851.html
*9 図はいずれも「社会実情データ図録」http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1320.html
*10 内閣府平成27年度 第8回高齢者の生活と意識に関する国際比較調査結果」http://www8.cao.go.jp/kourei/ishiki/h27/zentai/
*11 あまり話題にならないが、待機児童だけではなく待機老人も社会問題になっている。増田寛也(2015)『東京消滅』中公新書.によれば、東京における介護需要の急速な高まりは大きな問題である。
*12 世代別選挙区とは、世代ごとに選挙区を区切り選挙を行う制度である。また、ドメイン投票方式とは、非有権者の子を持つ親に子の分の投票権を持たせる制度である。そして、余命比例投票とは平均寿命と現在年齢との差分によって、その個人の投票価値を決める制度である。
*13 *1に同じ
*14 「「少子高齢化」への対策」YomiDr., 2012年4月25日, https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20120425-OYTEW51671/

 

ちょっと気になる社会保障 増補版

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「民共共闘」とは何か-そのオルタナティブを考える

 衆議院議員である長島昭久民進党を離党したことは、ちょっとした話題になった。長島は離党の理由として、民進党共産党選挙協力、すなわち「民共共闘」を挙げている。実際のところ離党の理由としてはいろいろな憶測があるのだが、とりあえずここでは「民共共闘」をどう評価できるか考えていきたいと思う。

 そもそも、民進党はなぜ共産党選挙協力をするのだろうか。その理由は選挙制度にある。衆議院選挙制度小選挙区制を中心としたものであるが、第三の候補者が出てきた場合、小選挙区制は票割れという深刻な問題を抱えることになる。

 例えば、下のような事例を見てみよう。この選挙区で議席を獲得できたのは政党Aである。ところが、政党Cの立場が政党Bに近いもので、政党Cの支持者が政党Aよりも政党Bを望ましいと考えていたとしたらどうだろうか? この場合、政党Cは候補者擁立を見送ることによって、政党Bを勝利させることができるのであり、また、それが民意=有権者の選好をより正確に表した選挙結果であるといえる。

  得票率
政党A 45%
政党B 40%
政党C 15%

 そもそも、小選挙区制においては政党Cのような存在を前提としていない。なぜならば、政党Cのように当選可能性が低い候補者は、合理的な選択によって立候補をしないはずであって、結果として小選挙区制は二大政党制をもたらすと考えられるからである(デュヴェルジェの法則)。

 ところが、衆議院選挙制度小選挙区比例代表並立制と呼ばれるものであり、比例代表部分に頼った小政党も存在する。このような小政党には、仮に当選可能性が低かったとしても、比例代表における票の掘り起こしや地方組織の維持・活性化を目的として、小選挙区に候補者を擁立するメリットが存在する。

 ここで、政党Aを自民党、政党Bを民進党、政党Cを共産党とすれば、「民共共闘」の構造を理解しやすい。共産党には当選可能性がなくとも候補者を擁立するメリットがあるのであり、その結果として自民党が「漁夫の利」的勝利を得ていた選挙区が一定程度あったのである。

 さらに、下の図は第47回衆議院議員総選挙における明推協の意識調査の結果だが、いわゆる「革新政党」が日本には数多く存在することがわかる。つまり民進党が二大政党の一角を担うのは極めて難しいのである。

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  このような理由から、民進党は合理的選択によって野党共闘を進めてきた。ここで大事なのは、民共共闘」には確かに「野合」的要素もあるものの、それは同時に、選挙結果にわれわれ有権者の選好を正確に反映しようとする試みでもあった、ということである。共闘はどうしても批判の対象になりやすいが、このようにポジティブな評価を加えていくことも必要である。

 しかしながら一方で、野党共闘が政党の境界を曖昧にし、また政党ラベルを傷つける可能性がある、という批判も正しい。特に最左派・共産党との協力に否定的な見解が多いのも理解できる。だがしかし、それならば、われわれの選好をより正確に反映できる別の方法を模索するべきではなかったのだろうか。

 実は、小選挙区制を維持したとして、そのような選挙結果をもたらす選挙制度を設計することは十分に可能である。この点については、坂井豊貴『多数決を疑う』(岩波新書)に詳しい。例えば、いま話題のフランス大統領選挙で用いられている決選投票付き多数決もそのひとつの方法であろうが、坂井氏はボルダールールを有力視ししている。

 ボルダールールを説明すると、例えば候補者が三人ならば、有権者は三人に順位をつけて投票し、候補者は順位によって3点、2点、1点と点数を獲得する。そしてこの点数の合計が最も多い候補者が当選する、というものである。このルールならば小選挙区制の脆弱性である票割れを緩和できる。

 また、小選挙区制における票割れという脆弱性に苦しめられているのは、民進党だけではない。先の参院選においては、幸福実現党の候補者擁立によって自民党議席を落とした選挙区が複数あった(参照)。

 このように考えれば、小選挙区制の脆弱性を克服できるような選挙制度与野党で作成していくのは、決して不可能なことではなかったといえるだろう。長島昭久民共共闘を理由に離党してしまったが、民共共闘は合理的選択であった上に、有権者の選好をより正確に反映できるものであった。民共共闘のデメリットを問題視するならば、小選挙区制の脆弱性を克服できるような選挙制度を提案し、率先して与党を巻き込んだ議論を起こしていくべきだったのではないだろうか。

 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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「決め方」の経済学―――「みんなの意見のまとめ方」を科学する

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「地方自治は民主主義の学校である」と言ったのは誰なのか?

 「地方自治は民主主義の学校である」ーこれは非常に有名な言葉なので、知っている人が多いだろう。住民が地方自治に参加することによって政治に対する意識が高まり、結果としてより良い民主主義を実現できる、そういった考え方である。一般的にこの言葉はイギリスのブライスによるものだとされるが、フランスのトクヴィルによるものだ、とする説もある。果たしてどっちが正しいのだろうか。

 実際にブライス『近代民主政治 第一巻』松山武訳(岩波文庫, 1929)を読んでみると、160ページに以下のような記述がある(旧字など一部修正済み)。

[……]しかして農夫も労働者も商店主や土地持ちの百姓と等しく、総ての人々を公共の事業に参加せしめ、その自治体のため自身で考え、またその周囲に何らかの奉仕し得る範囲をもっていることを自覚させる事はその重要な点である。彼らは自己に賦与された権力について公共に対して責任を持つという原理の運用を狭小な範囲で観察し、より大規模の問題についてこれを立派に応用出来るようになるのである。

[……]民主的な政治が最も国民の興味を集め、その中から有能の人物を挙げているのはスイス及び合衆国、特にその北部及び西部の諸州で、いずれも農村における地方自治の最も発達している地方である。けだしこれ等の例は地方自治は民主政治の最良の学校、その成功の最良の保証人なりという格言の正しいことを示すものである。

  ブライスは確かに「地方自治は民主主義の学校である」と言っているが、それはあくまで「格言」を引用する形になっている事がわかる。この言葉の初出をブライスに求めることは難しいだろう。

 それではトクヴィルの方はどうだろうか。トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第一巻(上)』松本礼二訳(岩波文庫, 2005)の96-97ページから引用する。

 地域共同体の自由を確立するのは非常に難しく、またそれはあらゆる自由の中でもっとも権力の侵害にさらされやすい。地域自治の諸制度は、単独では、野心的で強力な政府にとうてい抵抗できまい。うまく自己を守るためには、それは全面的に発達し、国民の思想や習慣と一体化していなければならない。したがって、地域共同体の自由は習俗に根づかぬ限り簡単に破壊される。そして、長い間法の中に生き続けた後でなければ習俗に根づくことはできない。

 地域共同体の自由は人間の努力次第でできるというものではない。したがって、それが人の手で創り出されることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるのである。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず成長する。法と習俗と環境、なかんずく時間の絶えざる作用がようやくこれを確たるものにする。ヨーロッパ大陸のいかなる国をとってみても、地域共同体の自由を知る国民は一つとしてないといえる。

 しかるに、自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない。束の間の情熱、一時の関心、偶然の状況が国民に独立の外形を与えることはある。だが、社会の内部に押し込められた専制は遅かれ早かれ再び表に現れる。

 長くなってしまったが、トクヴィルは「地方自治は民主主義の学校である」とは言っていないことがわかる。もちろん自由は民主主義の重要な一要素ではあるが、ここでは専ら自由との関係に絞って論じられており、民主主義そのものの話は出てこない。結局、格言の初出はトクヴィルとも言えないことになる。

 とはいえ、ブライスが引用した「格言」の大元は、おそらくこのトクヴィルであろう。『アメリカのデモクラシー』が出版されたのは1835年で、『近代民主政治』は1921年であるから、実に86年もの期間が開いている。大方、「伝言ゲーム」をするうちに言葉が変わっていったのだろう。その変遷についての研究があるかは把握していないが、未だ手を付けられていないのであれば、これを調べるのも面白そうでは、ある。

 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

 

天皇の天皇制からの解放-天皇解放論とは何か

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 今上天皇の「おことば」は世間を騒がせたが、そもそも私は象徴天皇制を廃止すべきだと思っている。ここではその理由を述べたい。なお、はじめに断っておくが私の立場は「反天皇」ではない。むしろ今上天皇には敬意を抱いている。だが、皇室に親しみがあるわけでも、関心があるわけでもない。これは自分のような若い世代において、多数を占める立場だといって問題ないだろう*1。

 そのような私が問題視するのは、象徴天皇制の非人道性である*2。皇族は表現の自由や信教の自由、参政権などを筆頭に、職業選択の自由など諸々の人権を制約されている。皇族以外にも重要な人権を制約されている人たちはいる。例えば公務員がそうだが、彼らは自らの選択でそうなったのであり、問題はない。すなわち、象徴天皇制の問題は「彼らは生まれながらにして人権を制約される」というところにある。

 現代において「我々は生まれながらにして人権を保有している」という理解が通説であることを考えれば、象徴天皇制の非人道性はまさにその真逆にある。皇族は皇族に生まれてしまったが故に、自由な人生を全うできないのである。仮に皇位継承者がLGBTに生まれてきたらどうするのだろうか*3? 象徴天皇制はこのような問いに対する答えを持ち合わせていない。

 ジョン・ロールズは無知のヴェールという概念を提唱した。我々は、どのような家庭に生まれるかを選択することができない。だからこそ、どのような環境に生まれたとしても本人次第で正当な評価を受けられるような社会設計をしなければならない。そういった議論だ。象徴天皇制の非人道性を議論することは、給付型奨学金を議論することの延長線上にあるといってもよい。

 そもそもとして、象徴天皇制は国民の総意に基づいているはずだ。すなわち、象徴天皇制が非人道的であるのはまさしく我々国民の選択によるし、その責任がある。これまで、我々は皇族に「象徴」という何の自由もない堅苦しい立場を押し付け、いいように使ってきた。我々は象徴天皇制を廃止し、「彼ら」を「我々」に迎え入れなければならない。「おことば」がその第一歩になることを願っている。

 

*1 平成の皇室観 | 世論調査 - 社会や政治に関する世論調査 | NHK放送文化研究所

*2 この考えの先駆けとなるのが中野重治「五勺の酒」(1946)である。中野は、当時封建的な視点から天皇制廃止を唱えていた共産党を痛烈に批判している。天皇について「個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ」と評価し、「天皇天皇制からの解放」を共産党こそが主張するべし、と唱えた。

*3 特に「男の子を産まなければならない」という前時代的プレッシャーが皇族にあることを考えれば、この問題は深刻である。

 

以下、資料として置いておく。

 一昨日、有栖川宮邸で東宮(後の大正天皇)成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。[……]現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、何らの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にはないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。

ベルツの日記〈上〉 (岩波文庫)

ベルツの日記〈上〉 (岩波文庫)

 

[……]主権なき国王の位地は、随分迷惑なものならん。将来人類普通の教育を受け、文芸そのたの嗜好を有する皇族様方にとつては、皇位につくことは、ずいぶん御迷惑の次第ならんかとも恐察し奉る。儀礼その他無意味のことがらに、多くの時間をとられて、自己天賦の嗜好を研磨する時間を得るあたはざる生活は、決してたのしきものではあるまい。将来は英国前皇帝の如く、皇位を避るものが増加するかも知れない。

尾崎行雄、1946年の衆議院における憲法改正賛成演説にて。旧字体は直してある。なお帝国議会会議録検索システムより閲覧できる。

 

※備忘録代わりに追記

[……]明治になって皇族が名実ともに超特権身分となり、天皇の「藩屏」とされた以上、彼らがこのような「ノブレス・オブリージュ」を課せれられるのもやむをえないところであった。そして皇族の中にはこのような期待に応えようと心掛けた人もいたこと、逆に全く無頓着な人もいたことも本書で見た通りである。

 後者のような皇族を批判するのはやさしい。富と特権を保証されながら、責務を果たさないのは「いいとこどり」で許されない。「崇高なる御天職」がいやならば、さっさと臣籍降下すればよろしい――。しかし、彼らも望んで皇族に生まれたわけではない。臣籍を離れることは皇室典範でも認められているが、実際にはそう簡単にはできない。このようなジレンマの中で、皇族たちは今のわれわれには不可解とも滑稽とも見える行動をとってきたのだ。

皇族と天皇 (ちくま新書1224)

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明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか

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