「地方自治は民主主義の学校である」と言ったのは誰なのか?

 「地方自治は民主主義の学校である」ーこれは非常に有名な言葉なので、知っている人が多いだろう。住民が地方自治に参加することによって政治に対する意識が高まり、結果としてより良い民主主義を実現できる、そういった考え方である。一般的にこの言葉はイギリスのブライスによるものだとされるが、フランスのトクヴィルによるものだ、とする説もある。果たしてどっちが正しいのだろうか。

 実際にブライス『近代民主政治 第一巻』松山武訳(岩波文庫, 1929)を読んでみると、160ページに以下のような記述がある(旧字など一部修正済み)。

[……]しかして農夫も労働者も商店主や土地持ちの百姓と等しく、総ての人々を公共の事業に参加せしめ、その自治体のため自身で考え、またその周囲に何らかの奉仕し得る範囲をもっていることを自覚させる事はその重要な点である。彼らは自己に賦与された権力について公共に対して責任を持つという原理の運用を狭小な範囲で観察し、より大規模の問題についてこれを立派に応用出来るようになるのである。

[……]民主的な政治が最も国民の興味を集め、その中から有能の人物を挙げているのはスイス及び合衆国、特にその北部及び西部の諸州で、いずれも農村における地方自治の最も発達している地方である。けだしこれ等の例は地方自治は民主政治の最良の学校、その成功の最良の保証人なりという格言の正しいことを示すものである。

  ブライスは確かに「地方自治は民主主義の学校である」と言っているが、それはあくまで「格言」を引用する形になっている事がわかる。この言葉の初出をブライスに求めることは難しいだろう。

 それではトクヴィルの方はどうだろうか。トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第一巻(上)』松本礼二訳(岩波文庫, 2005)の96-97ページから引用する。

 地域共同体の自由を確立するのは非常に難しく、またそれはあらゆる自由の中でもっとも権力の侵害にさらされやすい。地域自治の諸制度は、単独では、野心的で強力な政府にとうてい抵抗できまい。うまく自己を守るためには、それは全面的に発達し、国民の思想や習慣と一体化していなければならない。したがって、地域共同体の自由は習俗に根づかぬ限り簡単に破壊される。そして、長い間法の中に生き続けた後でなければ習俗に根づくことはできない。

 地域共同体の自由は人間の努力次第でできるというものではない。したがって、それが人の手で創り出されることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるのである。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず成長する。法と習俗と環境、なかんずく時間の絶えざる作用がようやくこれを確たるものにする。ヨーロッパ大陸のいかなる国をとってみても、地域共同体の自由を知る国民は一つとしてないといえる。

 しかるに、自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない。束の間の情熱、一時の関心、偶然の状況が国民に独立の外形を与えることはある。だが、社会の内部に押し込められた専制は遅かれ早かれ再び表に現れる。

 長くなってしまったが、トクヴィルは「地方自治は民主主義の学校である」とは言っていないことがわかる。もちろん自由は民主主義の重要な一要素ではあるが、ここでは専ら自由との関係に絞って論じられており、民主主義そのものの話は出てこない。結局、格言の初出はトクヴィルとも言えないことになる。

 とはいえ、ブライスが引用した「格言」の大元は、おそらくこのトクヴィルであろう。『アメリカのデモクラシー』が出版されたのは1835年で、『近代民主政治』は1921年であるから、実に86年もの期間が開いている。大方、「伝言ゲーム」をするうちに言葉が変わっていったのだろう。その変遷についての研究があるかは把握していないが、未だ手を付けられていないのであれば、これを調べるのも面白そうでは、ある。

 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)